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社号 兵庫縣姫路護國神社 (ひょうごけんひめじごこくじんじゃ) 住所 兵庫県姫路市本町118 電話番号 079-224-0896 FAX 079-224-0885 - 詳細地図
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JR大阪駅 →(新快速姫路行)→JR姫路駅 (約60分)
阪神梅田駅→(特急姫路行) →山陽姫路駅(約90分)JR姫路駅、山陽姫路から徒歩約15分。
大手前通を姫路城に向かって北上し、つきあたりを右折。お車でのお越しの際は、専用駐車場をご利用ください。
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境内案内
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イ | 本殿 | ヌ | 社号票 |
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ロ | 社務所 | ル | 昭和天皇御製駒札 |
ハ | 休憩所 | オ | 鉄五四五四部隊 比島散華碑 |
ニ | 白鷺宮参集殿 | ワ | 姫路歩兵第百三十九聯隊 鎮魂碑 |
ホ | 手水舎 | カ | 第十七師団 鎮魂碑 |
チ | 境内警備員室 | ヨ | 詩歌吟詠道 賀堂流碑 |
リ | 参道 | タ | 「征き逝きし 同胞迎う 里もみじ」句碑 |
神社内 各碑文について
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オ:鉄五四五四部隊 比島散華碑
鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う
昭和三十四年十月吉日
ワ:姫路歩兵第百三十九聯隊 鎮魂碑
姫路歩兵第百三十九聯隊略史 昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。
平成四年五月吉日
カ:第十七師団 鎮魂碑
鎮魂
元第十七師団長 酒井 康
第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す 創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
昭和五十七年五月三日
野砲兵第二十三聯隊戦友会
歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
昭和五十七年五月三日
歩兵第八十一聯隊戦友会
ヨ:詩歌吟詠道 賀堂流碑
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始し礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
昭和三十七年三月
詩歌吟詠道賀堂流門弟一同